>>【前編】武蔵野女子学院 日野田直彦校長インタビューを読む

 

──型にはまらない挑戦と結果で注目を集める日野田校長ですが、ご自身を形成した原体験をお聞かせください。

日野田直彦(以下、日野田) 父親の仕事の関係で、10歳から13歳までタイにおり、平日は日本人学校へ、アクティビティはインターナショナルスクールにという生活を送っていました。中学1年で帰国してからは、同志社国際中学に通い始めました。ここは文部省指定の「帰国生徒専門受け入れ校」でもあり、PBL(問題解決学習法)を実験的に始めるタイミングでもあったので、教科書をベースに暗記して試験を受けてというような日本的教育とは違いました。大学生のゼミのように、高校の日本史ではテーマを「鬼」と決め、民俗学者の柳田國男さんのことも絡めながら、1年間課題研究を続けました。
そんな経歴のせいか、日本社会に順応できない感覚がずっとあり、「あるべき」「あらねばならない」という無言のプレッシャーに対してはずっと違和感を抱えていました。同じ人間なんていないのに、成功とか幸せのモデルが決まっていて、それを目指すことを強要される。わかりやすく言えば、偏差値の高い大学に進学し、名前の通った会社に就職すれば安泰という考え方で、それをみな当たり前のように受け入れている。でも、一人ひとりと本音で話してみると別の希望を持っていたりして、そのことにも驚きました。日本は本音と建前の社会だというけれど、本音を話せる社会をつくらないとおかしいと思う気持ちがずっとありましたね。
私の人生は、良くも悪くも失敗だらけなんです。だから挑戦して失敗することは怖くない。でも、理解してもらえないという苦労も味わってきました。就職も親からの猛反対を受けました。馬渕教室という学習塾に就職したのですが、父親も叔父も日本を代表する大手メーカーで役員まで勤め上げた人たちで、彼らの考える社会的成功には当てはまらなかったんです。
でも、私は教育に興味があった。自分の原体験から日本の教育は少し変だ感じていて、この分野に関わりたかったんです。だいたい父のように大手メーカーに入ったところで、人口減少が始まってマーケットが破綻することが目に見えているのだから、まったく興味が持てなかった。友人たちは、外資系のコンサル会社や金融に勤めることが多く、初任給では3倍以上の差がついていました。周囲は「塾に就職するなんてもったいない!」と思っていたでしょう。でも、私自身は「お金で就職先を決めるわけじゃない。自分の覚悟が決まっているなら、誰も行かない道を選び続けよう」と思っていました。

──校長として手腕を発揮された、前職場である大阪府立箕面高校での取り組みを具体的にお聞かせください。

日野田 大阪府の公募制度によって、当時全国最年少の36歳で箕面高校の校長に着任しました。4年間の学校経営の結果のひとつとしては、地域で4番手・偏差値50(河合塾)だった高校から、世界有数の難関校であるミネルヴァ大学をはじめとして、多くの海外大学への進学者を輩出する高校への変化したことが挙げられると思います。
ただ、私がこだわったことは、学生に「感じて考える機会」を提供することでした。あるとき、国費留学でハーバードに進学している学生に何人か学校へ来てもらったんですが、そのうちのひとりは精神医学を研究しながら、『エヴァンゲリオン』が大好きというユニークさも持ち合わせていました。学問の話とともに、面白おかしくアニメの話もするんです。それを見ていた箕面高校の生徒たちは、「天下のハーバードと言っても、すごく普通の大学生じゃない? 自分とも似ているところあるよな」と、いい意味で勘違いをした。それで、海外の難関校が身近なものになったんです。
私は、「海外大学に行け」とは一度も言っていません。治安をはじめ、日常生活のさまざまな点から考えたら行かない方がいい場合もあります。「その大学に進学したいと本当に思うなら挑戦すればいいし、日本で進学してもいい。交換留学で試しに行ってみて、ここだと思ってから編入してもいい」というスタンスでした。
すべての子どもたちには好奇心があります。好奇心の花が開く機会に巡り会えれば、自ら前に進んでいくものなんです。

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